2011年02月22日 笑顔の素晴らしい人って

 先週には仏事で度々お休みをいただきました。


一人はお正月に亡くなった私の従弟(50代独身)の49日法要でした。
私と違い優秀で最高ランクの偏差値の付く大学・学部出身でしたが、いつも穏やかに「にやり」と笑うその顔は勉強の虫であったことなど少しも感じさせてくれませんでした。酒やタバコをこよなく愛する庶民、田舎人でした。

くも膜下出血という病名でしたが、190cm近くのやせ形、スポーツ経験(バスケ)からくる体力の自信が病気の前兆をも軽くみなしていたようです。

姉妹たちも早く世を去った血統ではあるのでもっと健康に気遣ってもらいたかったです。




 もう一人は昨秋に脳梗塞で入院し、体力が徐々になくなり 目が閉じたまま開かなくなって意識の有無さえわからず、先週 そのまま眠るように天国に行った91歳の叔母でした。

叔母の生れた大正8年(1919年)は大正デモクラシーで文化の花は咲いた良い時代でしたが、生家は田舎(千葉県長生郡)の子だくさんの貧乏百姓でした。


時代背景では、4才(大正12年)には関東大震災に見舞われ、家族の助けというより 口減らしの為に8才で「奉公」に出されたとのことです。


10才(1929年)には、第一次世界大戦(1914〜1918)で荒廃したヨーロッパの復興景気で沸いていたアメリカで「大恐慌」が起こり、世界へ波及していきます。

日本でも日清・日露に続き連合国側についた大戦でも戦勝国であったことで、国民の自信が大陸への進出から世界を相手にする軍国国家へとひた走ります。

戦前に結婚しますが、戦争帰りの亭主の職や酒癖に困りながらも4人の娘を育てます。

その亭主も40才を過ぎたころ死にますが、後は女手一つで全員を嫁がせます。

長年にわたる娘の家出や同居する婿さんとの不仲、苦労の連続でした。

顔面神経痛の為神経ブロックという注射を定期的にしていましたし、心臓にはペースメーカーも入っていました。


*体表の装置は火葬前に外しても、火葬後の骨とともに体内部分の金属コードが見えた時には驚きの中に悲しさも感じざるを得ませんでした。




 そんな苦労ばかりの叔母でしたが、私の子供のころから「笑顔」の良く似合う、いつも私たちの心配をしてくれるとても暖かな心の持ち主でした。

大昔の「奉公」先の話や仕事の関係の人を悪く言ったことは聞いたこともありません。

顔を合わせるたびにいつも笑顔でした。


『どうしていつもニコニコと出来るんだろう』と思っていましたが、叔母の個人史を考えてみると、苦労・苦しみ・悲しみが人より多かったであろうことが歴然です。



「《苦労》や《悲しみ》が多ければ、それだけ人にやさしくできる」という言葉を聞いたことがあります。もっともっと笑顔を見せてもらいたかったです。




二人の逝去に、笑顔を想い出にくれたことを感謝し合掌。

honkab2 at 12:10│Comments(0)TrackBack(0)♪♪ログマスター002・ムーミン阿部のつぶやき 

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