2010年06月19日 沖縄では梅雨が明けたようです

 あれは40年前、高校生時代の部活関連でひょんな事に復帰前の沖縄訪問使節団に選ばれました。

東京駅から西鹿児島行きの急行で24時間程度、そこから連絡船で那覇市の港に着きました。
途中、大阪駅で富山県からのAさん香川県からのBさん、鳥取県からのC君と待ち合わせ高知のD先生に引率されるという5名の道中でした。

皆、優秀な高校生でC君などは京大現役合格するほどでした。
私は関東代表ということもあり、東京の某省の担当官から使節団の費用を預かり、会計係ということになりました。



鈍行(各駅停車)に近いような急行のボックス席(全席自由席)だった為 二人の女子の為に席を譲り、床に寝る長い列車の旅でした。

帰りにはブルートレイン(寝台特急)であったので快適で早かったのですが、行きは汽車の苦労だけでなく、西鹿児島からの連絡船も 当日が最後の航海という「琉球丸」というボロ船で、荒れ気味の外洋では木の葉のように揺れていました。(帰りは「乙姫丸」という新型船でかなりましな船旅になりました。)



船と云えば東京湾を渡るフェリーでさえも気分が悪くなる私にとって琉球丸での船酔いは半端ではありませんでした。

到着予定の20時間をはるかに超えて26時間、そのうち何時間もトイレから出てこれませんでした。 私はその程度でしたが、C君はもっと激しい船酔い状態でした。 死ぬ一歩手前とでもいいましょうか・・・・・。




 船では日本円は使えなくて、東京からもたされた米ドルで乗船券他支払をしました。 船室には1〜3等があり、もちろん学生の私たちは3等の船底・大部屋で一人当たり畳半分程度のスペースしかありません。


慣れている人々でも大なり小なり船酔いがあるので、とにかくすることはごろ寝、少しでもいい待遇を受けられるよう、D先生が船室担当にあげたチップは10ドル 当時1ドルは360円で固定され、平均の給与が10万円台に乗ったばかりの世相です。 急に待遇は良くなったものの、D先生 価値が分からず「ふんぱつしすぎたな・・・。」とは後の祭りでした。


航空機での海外旅行は一般的でなく、まして持ち出しできる日本円も10万円(昭和46年まで)までとかいう時代でした。 


家を出て4日目に沖縄に到着したわけですが、当時の沖縄は米軍統括下にあり、どこに行っても米兵・軍施設ばかりでした。





沖縄の高校生たちとの親睦が目的ではあったのですが、姫ゆりの塔・健児の塔やビーチなどの観光やソウキそば、海蛇料理など、畑でのサトウキビかぶりつきなども経験しました。


前年のB52戦略爆撃機の墜落事故での残骸の残る米軍基地ではカメラを向けるなという注意も有り、占領されているという現実は緊迫感をも感じるものでした。


 * この年の秋佐藤首相が渡米、ニクソンとの間で3年後の返還を約束してきました。

おりしも日本はこの年GNP(国民総生産)で世界第二位に躍り出た年です。
今年GDP(国内総生産)で中国に抜かれ3位になるそうです。 (40年間もの間2位を保っていたんですね・・。)



3カ月間のみ有効の白い(カバーコートの無い)パスポートで渡航前には何種類かの予防接種が義務付けられていました。



琉球切手や1ドル硬貨(銀貨なので流通していない)で作った指輪など多くの思い出は押し入れの中で40年もの眠りについていますが、私の青春のアイデンティティーともいえるそれらの物を押し入れから引っ張り出そうかと昨今考えています。



娘や息子に見られたら恥ずかしいような手紙や思い出も有りそうです・・・。






その前に変な?DVDやVTRテープの始末をしないと…!!!!




沖縄の梅雨明けでここまで考えてしまいました。

honkab2 at 17:23│Comments(0)TrackBack(0)♪♪ログマスター002・ムーミン阿部のつぶやき 

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